
つば九郎先生への追悼文
更新日:2025年2月25日 (火)
別れは本当に突然のものでした。
ディナーショーの千秋楽でたくさんの「えみふる」をいただいたあと、私は西都キャンプでも先生にお会いできることを楽しみに過ごしていました。
しかし、2月3日で先生のブログ投稿は止まり、ファンの中で不安が広がっている中、2月6日に休養が発表されました。
そして、2025年2月19日、ヤクルト球団より「つば九郎を支えてきた社員スタッフ」が永眠したことが発表されました。
この記事は、その翌日から執筆を始めていいます。
時間をかけて先生と向き合い弔うことで、私自身が「みんなえみふる」を取り戻すために悲しみに向き合い、前を向くためにこの記事を書くことにしました。
人に読んでもらうために公開するというよりは、他の方も読めるレベルまで思考を整理して丁寧に発信することで、私なりの追悼とし、また前に向くための契機にしたいと考えています。そのため、私自身の話が多いものとなりますのでご理解ください。
この記事を投稿できた時が、私にとって、気持ちを少し整理することができたタイミングになると信じています。
私が球団マスコットを追いかけるようになるまで
「つば九郎」との出会いははっきりとした記憶がありません。しかし、つばさんぽの一環で地元の駅で1日駅鳥をしていたことは覚えています(2010年くらいのことだった)。
6歳からプロ野球に目覚めた私は、いつしか野球を見ることは"当たり前"となり、関心の中心は野球自体ではなく球団マスコットへと移っていきました。
遠征するお金が工面できない高校生のころは特に、どんな時も関心の中心は、つば九郎先生の一挙手一投足とジェットコースターのような成績を収めるスワローズでした。
燕パワーユニフォームに2896の背番号を入れたときの嬉しさは今も忘れられない記憶であり、ヨドバシカメラのイベントなどによく通ったことを昨日のように思い出します。
球団アイコンとしての"つば九郎"と"つば九郎先生"
"つば九郎"はしばらくの間、活動を休止することになリました。これからのスワローズのマスコットというものがどうなっていくのか。球団の方は今、一生懸命考えていられるのだと思います。
今後がどうなろうと、もう2度と私たちの愛したつば九郎先生が神宮球場で躍動している姿は見れない。その事実は変わりません。しかし、"つば九郎"は今後もスワローズのメインマスコットであり続けるといったことも考えられます。
このような葛藤の中、さまざまな考えがモヤモヤ、ザワザワした状態で心をうごめいていたのは私だけでなかったのではないでしょうか。
空へ飛び立ったのは「つば九郎」ではなく「つば九郎先生」「つばちゃん」なのではないか
私は兼ねてから「つば九郎」を「つば九郎"先生"」とお呼びしていました。基本的には、どのマスコットさんにも「さん」、「くん」、「ちゃん」といった敬称をつけて呼ぶように意識していますが、「先生」とお呼びしているのはつば九郎先生だけでした。
それだけ、私の人生において強い影響を与えられましたし、いわゆる「ファン・オタクとしての活動」だけでなく、人生に対しても深い関わりがあったのだと思います。
先生は、その類まれなる観察眼と洞察力で、たくさんの人を元気づけてきました。
各界からの追悼メッセージで、柏木ひなたさんが投稿された「そのままでいてください」と伝えられたというエピソードは特に心に沁みました。また、楽天応援団時代のジントシオさんに先生の側から握手を求めたというエピソードは、先生がどれだけ「プロ野球」というものに対して深くて広い知識と愛を持っていたのかを示しているものではないでしょうか。
つば九郎先生
— 柏木ひなた (@_hi_99_na_) February 19, 2025
いつもギリギリのフリップ書いてるのに
わたしには「そのままでいてください」
と書いてくれてました
いつ会っても優しかったです
そして始球式の願いが叶うまで
応援してくれて有難うございました
これからも先生が愛するスワローズを
全力で応援していきますね
ご冥福をお祈りします pic.twitter.com/FNS6dzd5TG
今日は浦添に来てます。
— ジントシオ/JIN TOSHIO (@jintoshio) February 20, 2025
昨日の訃報を聞き私も大変ショックでした。
楽天イーグルス職員時代に外のステージでのイベントの際につば九郎から握手を求められたことがあり、私のことを認識されていて嬉しかった思い出があります。いつもコメントが絶妙でしたね。
心よりご冥福をお祈りいたします。 pic.twitter.com/YLdP5s4OIv
気持ちの整理を進めるうちに、私たちが突然の別れを突きつけられた相手は「つば九郎」ではなく、私に取っての「つば九郎先生」や、人によっては「つばちゃん」という存在なのかもしれないと思うようになりました。もしかしたら「つば九郎」というものは今後もどのような形にしても生き続けるわけで、それを私たちは受け入れる必要があり、先生もそれを望まれているのだろう。と、自分を言い聞かせているところです。
またいつか、つば九郎"先生"に会いたい。しかしそれは叶いません。"先生"以外の「つば九郎」に会いたいと思うのか、受け入れられるのか、それもまだ分かりません。新しいマスコットさんが誕生した方が受け入れやすいのかもしれません。しかし、球団が、チームとファンの「えみふる」のために出す答えがそうであるのなら、受け入れる必要があり、その覚悟はしておこうと考えています。
事実の伝え方
今回、第一報が名古屋のテレビ局のワイドショーのニューステロップのみでした。番組内では触れられず、ネットニュース等に配信されることもなく、故人に対して大変無礼な形であったとともに、結果的に球団発表を急かしたことは明らかでした。
毎年のディナーショーのMCを務められ、先生のことを愛情深く「つばちゃん」と呼んでおられた、東海ラジオ・村上アナが、報道翌日のご自身の番組内で仰られた放送局への怒りはまさにファンの心情そのものでした。
球団はファンへのお知らせについて、本鳥のこと、ご遺族のこと、これからの球団のこと、本当にたくさんのことを考えていたのだと思います。
本来はどのような形になるべきだったのか、それを論じることも推し量ることも意味を成しませんが、とにかく私からは「私たちの愛する"先生"の旅立ちをしっかりと伝えていただいた」ことに、本当に感謝したいです。
B・Bのコラム
私が先生と同じくらい尊敬しているのがファイターズのB・Bさんです。大学生になり金銭的な余裕から飛行機に乗れるようになると、真っ先に北海道に通うようになリました。
B・Bさんのコラムをはじめとした、「マスコット論」にいつも心を動かされています。マスコットの「生き様」を直に知ることで、先生をはじめ、B・Bさん以外のマスコットさんへのリスペクトがより深まったことは言うまでももありません。
そんなB・Bさんも、先生の"戦友"という立場で、翌日のお昼には気持ちを整理して綴ってくださいました。2ヶ月に1度くらいしかコメントをしない私ですが、ここにコメントを残そうと決意したことで、思い出を振り返ることはできませんが、感謝をはじめとした気持ちの整理が少しだけ進み、少しだけ前を向くことができました。
この記事の中でB・Bさんは、マスコットの若返りの「特効薬」の話を過去のB☆Bコラムから引用されていました。
該当のコラム以外でも(サイト閉鎖後まだ再公開がされていませんが)、ブレービーを演じられた島野修さんの話などで、アクターさんの寿命が短いことや、マスコットの「個性」「去り際」などの話をされていました。
正直なところ、長期の休養が発表されてからのこの2週間はB・Bさんのその話だけがひたすら脳内にこびりついていたので、B・Bさん自身から直接そのことに触れていただいたことが、私の中ではだいぶ救われる部分になったのだと思います。
個性と属人化
今回の記事でハッとさせられたことがあります。それは私が近年、マスコットさんの生き様の魅力に取り憑かれていっていたのは、先生やB・Bさんという存在は、組織において「個性」が発揮されていた存在だからではないかと言うことです。
現代のビジネスでは、必ず"裏付けの数字"が求められます。何をしてどれくらいの数字が出たのか、その目標を達成できたのか、KPI(重要業績評価指標)という指標で測られることがほとんどです。また、システムを確立することで、担当者や状況に依存しない状態で数字に再現性を持つことが求められます。
B・Bさんのブログでは、たびたび球団における経済的な道理と自らの置かれた"すぐに数字を出せない存在"とされている立ち位置に対する悩みを吐露されています。
当然、マスコットさんは絶対に必要です。将来のファンとなる子供達に種を蒔き、また、ゲストを呼ばずとも野球に興味がない人にもリーチが取れる「いつでも球場にいる存在」はマスコットさんたちの大切な仕事であり、KPIでは測りきれません。
また、先生のような"個性"に再現性はありません。悲しいことに、球団にとっては「リスク」となるということが、今回図らずも明らかになってしまいました。近年、一部の球団では、完全に"個性"を排除した方向にマスコットさんのキャラクター付けを変更しているところも出ています。
しかし、マスコットさんという存在はそれで良いのでしょうか。先生もいつも仰っていましたが、マスコットさんは「ファンとチームを繋ぐ架け橋となる存在」です。ここで人間味を出さなくてどうするのでしょうか。これは「価値のある個性」なのではないでしょうか。
私も、普段は自らの職において、再現性のために属人化を排する必要がある一方で、個性・オリジナリティを出すことも求められることが多いです。つまり、いかに「個性」を「価値」として見出すことができるのかという軸で私は評価されているということになります。
私にとって先生やB・Bさんというのは、経済活動における究極の「個性」であり、言葉にしきれない尊敬の念はここにあったのだ、ということを最後に教えてもらいました。
先生、出会ってくれて本当にありがとうございました。
手元に残ったものから振り返る近年の先生の足跡
最後に、私の手元にあるものから、先生の直近5年ほどの活動を振り返って偲びたいと思います(5年以上以前のものは、しまい込んでいてすぐに出せません)。
ここまで、気持ちを整理しながら少しずつ前を向いて書き進めることができましたが、思い出を振り返ると今も涙が止まりません。しかし、このまま写真やボール、サインを見るたびに、後ろを向くことは先生に怒られてしまうかと思いますので、前を向くためにここではっきりと振り返りたいと思います。
しかし、先生との思い出を直視してじっくり振り返ることのできる精神状況でもありません。なぞるような浅めのご紹介となることをお許しください。
2021年の日本一
高津監督も追悼のメッセージで神戸の思い出に触れておられました。私もあの日のことは強く記憶に残っています。本当に凍えるような寒空の下、先生と共に過ごした日本一の瞬間は何にも変え難い思い出です。
〜髙津監督よりつば九郎へ〜#つば九郎#髙津臣吾#swallows#捲土重来 pic.twitter.com/bafwLbvrB5
— 東京ヤクルトスワローズ公式 (@swallowspr) February 21, 2025
つばの日
つばの日が始まったのも日本一の年だったでしょうか。五輪に伴う外苑封鎖で最初はスタジアム通り店でのスタートでした。開店前から待機しているファンに粗品が配られたり、たくさんの商品にサインを入れておいてくださったり、本当に先生の鳥柄が滲み出る素晴らしいイベントでした。PCケースは日頃から持ち歩いて共に戦っていますし、両足に魂の入った特大すわくろうも宝物です。
2000試合出場
私は、先生に名球会のブレザー贈呈があったことが本当に嬉しかったです。選手と同様にマスコットにもこのような勲章があるというのは本当に素晴らしいことでした。

当時のスタジアムグルメの写真が出てきました。先生もちゃんと休んでくれていれば、、、悔やんでも悔やみきれません。

30周年
ドアラさんと一緒に迎えた30周年というのも格別なものでした。そして何よりも初めてホームユニフォームを着用したというのが本当に嬉しかったです。私はマスコットさんが着用したものと同じものしか入手しないという面倒な拘りを持っているので、この時初めてホームのプロコレクションのユニフォームを購入することができました。まさか、これが最初で最後のユニフォームになるとは思いませんでした。今年はこのユニフォームで球場に行こうと思います。30周年記念の「つば九郎缶」も直筆サイン入りan-anや公式球の含まれた大変素晴らしい商品でした。
試合球にプリントされた先生
2000試合や30周年の際には、先生たっての希望で統一球へのオリジナルプリントをされていました。
プロコレユニフォーム同様、私はオーセンティックアイテムが好物なので、血眼になり入手しました。2000試合時のマジックナンバー・つばの日・達成当日のボールや30周年時の試合球は私にとっても宝物です。
この記事を書き終えるということ
私はこの記事の最初にこのように書きました。
時間をかけて先生と向き合い弔うことで、私自身が「みんなえみふる」を取り戻すために悲しみに向き合い、前を向くためにこの記事を書くことにしました。
(中略)
この記事を投稿できた時が、私にとって、気持ちを少し整理することができたタイミングになると信じています。
この記事を書き終えた時、私は前を向いていなければいけません。
ドアラさんは、オープン戦が始まるタイミングで、「まえをむいて 自分のできる事を。」という言葉を出されました。つばみちゃんは、「あしたもつばみのペースで頑張ります!」とした後に、「みんなもみんなのペースで応燕はじめてね!」という言葉を発信してくれました。
先生のことを誰よりもよく知るマスコットさんたちが、少しずつ前を向こうと頑張っていらっしゃる中、自分も少しずつでもいいから前を向いていかねばという気持ちにさせられます。
お二方やB・Bさんの発信などで、少しずつ気持ちのベクトルが前に向いてきて、思っていたよりは早くこの記事をまとめることができました。「気持ちを整理することができたタイミング」にはできたと思っています。思ったよりも早く書き進める自分に、「先生に対する思い・感謝」が、元からかなり明確であったと感じています。
今回の文章を通じて、先生の功績、私にとっての先生への感謝を文字にすることで、少しずつ、新しい一歩を、小さな一歩ですが踏み出し始めることができている気がします。
一方で、先生に紡いでいただいた思い出は、到底振り返りきることができません。時間が解決するとも思えません。この記事を出す直前になっても、YouTubeやXがおすすめしてくる動画などで、公開当時はなんとも思わなかった動画を見て泣いたり、思い出に耽ったりを続けています。少し無理やり振り返ろうと前章にもあるようにグッズを出してきたりしてみましたが、100%直視はできていないような気もします。
ここまで長い文章を書きましたが、まだ現実を認められない部分もありますし、明日から元気にいつも通りの生活を送るということもできません。
本当はこの記事を出したところで100%前を向くつもりだったのですが、思ったようにはいかなさそうです。正確には、100%前を向くことはできても、まだまだ涙をこぼす日は続きそうです。
まだ神宮球場周辺に近づくこともできていませんし、いくつかの遠征日程もキャンセルしていて他のマスコットさんたちのイベントにも足を運ぶことができていません。これから日常生活に戻っていく中で、たくさんのシーンでたくさんの思い出が蘇ってくるのだと思います。短期間で全ての思い出を振り返り切ることはできないかもしれませんが、その分いつまでも先生が近くにいてくれているのだと考えることにします。
改めて、先生、本当にありがとうございました。深い感謝の念に堪えません。つば九郎を支えてきた社員スタッフ様の、生前のご功労に敬意を表しますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
また、自らの気持ちに区切りをつけることが目的であったため、球団マスコットさん以外からの哀悼や、有名人やファンの皆さんが生前の先生の素敵な姿をたくさん見せてくださったことについては、ほとんど触れることができませんでした。悲しみが増すこともたくさんありましたが、一方でこれらに力づけられたことは言うまでもありません。私はまだ発信できるような状況ではありませんでしたが、早くから発信していただいた皆さんに救われた部分もありました。ここに御礼申し上げます。
残念ながら事実は変わりません。しかし、私たちは先生が紡いできた歴史をこれからも語り継いでいかなければなりません。少しずつ、自分のペースで前を向いて、先生と共に「えみふる」を忘れずに歩んでいこうと思います。
球団マスコットを追いかけて、東京・札幌・仙台を中心に年間60試合程度観戦している成人男性。 「球団マスコットの情報。」の管理人。NPBのマスコットさんを全体的に追っかけている。 特に好きなマスコットさんは、B・Bさん、つば九郎先生、イーグルスのマスコットさん。 「プロコレクション」「実使用グッズ」「NPBマーク」といった言葉に目がない。
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